投稿

8月, 2021の投稿を表示しています

謎日課、たとえ力を鍛える「堪えがたい」

イメージ
 間が空いているけど、何もしないよりはまし。そう言わなきゃやってられないくらいになにもない日々。 堪えがたい 1.モデルをコメンテーターに呼んでくるワイドショーみたいに 2.筋肉だけが唯一の自慢らしいマッサージ師の施術 3.お笑い芸人がネタがトンで沈黙が生まれた時間くらい 4.自分がいなければ即離婚だろうなという雰囲気の両親との食事 5.1年保たなそうな旬の芸人の吹き替え 6.甲高い声で陽気な人物のふりをしているYoutuber 7.方向性の定まっていないブログの新着 8.失業保険だけが目当てのやつに職業相談 9.保険を使わないともったいないと思っている連中でぎゅうぎゅうの待合室 ネガティブワードのほうが調子がでるよね。ほんと。もっと素敵な発想を身に着けないと引き出しが増えていかないよ。

グリットを鍛える「あなたの成功を喜んでくれる人は誰だろう」

イメージ
 今日も今日とて、ダウナーに目覚めました。 そんな気持ちで自己分析をしても後ろ向きなことしか浮かばないのでは前向きに生まれ変わることは不可能ではないかとも思えてくる。しっかしニュートラルギアが後ろ向きなのだから見つめ直す自分自身としては正しいのかもしれない。 ってことで あなたの成功を喜んでくれる人は誰だろう 自分を大事にできないのであれば、自分を見つめる目について考えてみよう。さすれば自分から湧き出ない活力を得られることもあるでしょう。 うーん。 考えるに、成功を勝ち取ったとき親類は喜んでくれるだろう。頭のおかしな独我論的な思考をもった子供といえども両親はそれなりの愛情を注いでくれていたと思う。その証拠に兄妹で優位差を感じたことはないし、まともな兄弟もいる。だから育て方が決定的に間違っていたわけはない。 だから、両親はちゃんと私の成功を喜んでくれるに違いない。これはほぼ確信だ。しかしそれは絆の強さだとか、感じ取った愛情からそう結論づけているわけではなく、客観的に要素を分析した結果そう思っているに過ぎない。 どこか私はカジュアルにサイコパスな帰来がある。出会った人に対し、感謝を抱くというよりは、感謝を抱くべき場面をちゃんと把握しているといった塩梅で、そんな心持では恩師に対しても適切な感情を抱いているとは言えない。最近は顔も合わせていないし。 そんなことでは、文章にせよ何にせよ、人の心を動かすようななにがしかをも成し得ないのだろう。 瞑想などを初めて、自分の心に向き合う機会は増えているが、どうにもわかりきった空疎な能面の横顔しか見えてこない。もう少し掘り下げたら仮面の裏側が見えてくるのだろうか。どうにも続けた先にはなにもないような気がしてならない。 よくないね。 何も得られないと思っては、本当に何も得られない。目的のものを得ようと努力した結果、それが手に入らなくても、何かが得られているはず。結果ではなく過程が大事だが、結果をイメージしなくては大事な過程さえも生まれない。 これらのポジティブな考えはすべて、知見として持っているものであって、私の元来の考え方ではない。どのように見に染みつけるというのだろうか。ますますわからなくなってきた。 喜んでくれる人、いろいろな人の顔が浮かぶ。しかれどそれは心から浮かんでくるものなのだろうか。

グリットを鍛える「困難な チャレンジをあなたはどうやって成し遂げたのだろう」

イメージ
 さて、前回は人生で成し遂げたことなどなにもないと述懐したが、今回はどうやって困難に立ち向かったかを振り返らなければならないようだ。 そんなことは豚に空の飛び方を聞くようなもので、ないことをきいても仕方がない。 私がある程度成し遂げたことは、それは困難ではなかったからだ。仕事にせよプライベートにせよ。それは解決可能であるとか、見通しがはっきりしていりうものにしか挑んでこなかった。挑むとさえ言えない。霧の中では船は出さない主義だ。 そう思うと、今回の自己探求はマイナス面しか思い浮かばない。自分を知る上では大事な事かもしれないが、どうにも負のエネルギーを抱え込んでまたブログの更新が遠のきそうだ。 私はとにかく失敗を恐れている。恥をかきたくないし、自分が無能なのを自覚したくない。そう思って、石橋を叩くことさえなく避けて歩んでいる。 そういった、いわゆるフィックスマインドセットをなんとかしたいといろいろの本を読んで心を変えたいと思っているが、今書いている文章のように、エクササイズとして自己を掘り下げると、どうにも変えることはできないという確信を深めるばかりだ。 と主節が反転してしまうが、今気づいたことがある。私が一番業績として挙げられるのはYoutube活動だった。数字としては微々たるものだが、大抵の人は1000登録を超えられれないそうだから私もなかなかに頑張った。それはできるという確信が会ったわけではなく、できないかもしれないというマイナスの発想さえなく集中していたからと思う。いわゆる楽しいからできた。みたいな状態だ。それがいつの間にか数字を追いかけたり、評判を気にするようになって行動できなくなっていた。 このあたりからなにか生まれ変わるきっかけが見えてくるかもしれない。 フロー体験の研究によれば、身の危険をともなうエクストリームスポーツの愛好者は、危険に身を任せて、その興奮の虜になっているというイメージを持たれているが、実はその逆で、困難な状況そのものをコントロールしているという統制感覚の虜になっているそうな。 そこから考えるに、私という同しようもないグズを再建させることはエクストリームスポーツに匹敵するような統制感を味わえる最高のフロー体験となることは間違いないはず。 でも、それができるのだろうか。 その不安を払拭しなくては、できなくても、少しでも得られるものがあるは

グリットを鍛える「今までにやり遂げたことの中で、最も困難だった挑戦は何だろう」

イメージ
 さて、ブログ更新も例のごとく停滞中。そりゃなぜ意志力を鍛える必要があるかっていうと、意志力が貧弱だからである。 まあ、いろいろと目標を書き出してみても、何一つ着手できちゃいない。近頃の行政とおんなじ有様だ。寂しい独り者の特権である、ネットでニュース批判するのも気が引けるくらいなにもしていない。 さて、なんもできないのは、何かが成せると思っていないことが原因だ。徒労に終わることを何より恐れている。たとえ成就できなくても、行程の中で得るものがあるかもしれないというのに。 果たして、今までの人生のうちですべてそういう生き方だったのだろうか。たとえ小さなことでも、なにかの成功体験があれば、それを基軸に成長していけるというものだ。だが、まったく思い浮かばない。 小さい頃は、必死に宿題をやる真面目な子供だったと言われたことがある。 思い返してみれば、なかなか宿題が終わらず半泣きで勉強机に向かっているふっくらした少年の姿が浮かぶ。 だが翌々考えてみれば、勉強ではなく宿題である。自ら立てた目標ではなく、ただただ、怒られるのが怖いとか、みんなの前で恥をかきたくないといった心情でやっつけているものだ。なにか叶えたい願望から、そこへ向かうため努力していることなどではない。 結局本質的には変わってない。与えられたものしかこなして来なかった結果、大人として自分自身での目標設定が必要な段になって、迷子に鳴ってしまった。 最近ゲームばかりしているのも合点がいく、ゲームでは全てに行動に意味が持たされている。それはゲームデザイナーがプレイヤーに満足感を提供しようと入念に設計した与えられた目的であり、自ら見出したものではない。 ときたま、独特のビデオゲームの楽しみ方をしている人がいる。RTAとかでもいいし、特定の状況下で特殊な反応が得られるか試してみたりだとか、そういった人は、ただただ与えられたビデオゲームをしているだけでなく、自ら原初的なゲームを見出している。 最近フロー体験の本を読んだけど、そこでも、自分でゲームを見出すことが幸福への第一歩だと書かれていた。 退屈なベルトコンベアー業務でも、自分から作業効率を向上させる目標をもってそこに集中すると高揚感のあるゲームが生まれる。 私は、いままでの人生自らゲームを作り上げたことはない。ただただ、社会の作った構造の中をある程度クリアできるものをつまんで