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11月, 2021の投稿を表示しています

謎日課、たとえ力を鍛える「狭い」

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 日本の住宅事情のように 不況の心労に余裕のない人の心持ち 生まれたばかりの猫の額くらい 都会の人の田舎者の受け入れしろ 田舎の村の入居者の受け入れしろ 今回つサイトでの定収入者の可能性 小学生の時に遊びにいった高島くんのお家くらい ドラえもんに与えられたプライベートスペースくらい 内部告発したあとにもらった個人オフィスくらい 福音派の家で自宅学習でそだった人生観くらい 狭い自体が、ネガティブよりな言葉であるので、出てきやすい。そして偏見がひどい。ニュースライターとかだったら、こういったちょっとした言葉の広げ方でサクッと炎上したりしそうだね。

グリットを鍛える「好きなスポーツ選手 を上げて その選手があなたにとって際立って見えるのはどんな特徴があるからか」

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 あいも変わらず意志力を鍛えようという意思が足りない。 さて、難しい課題だ。そもそもスポーツに明るくない。スポーツものの映画とかなら人となりもわかるけども、実際のスポーツ選手と言ってもピンとこない。 ドキュメンタリーを見ていたら、少しは分かるけど。 思い出したのは、ステファン・ホルム。走り高跳びの選手。身長が180程度。他の選手は軒並み200付近にもかかわらず、20センチほど低い身長で、世界選手権に名を連ねている。 ただこれも、才能ではなく努力というイメージを映像化しているに過ぎず、結局は、総合的な意味では資質があるということにも思えるのだ。 見方が間違ってるね。今の私に必要なのは、努力によって与えられた才能を上回ることができるという幻想だ。それに実があるかは問題ではない。宗教的な信心によって、努力に掛け金を乗せていくとう決断の後押しをしてもらわねばならない。そのために、自分を信じ、信じることを信じるために、いい話を信じていくわけだ。 ってことで、ステファン・ホルム選手をみていたらー、努力をすればー、必ず身になることがわかったのでー、私も頑張ろうと思いましたー 的な感じがいい思考だよねきっと。

自分の感性を持ち寄れないと、感動までは達せないかな『クライマックス』

感覚で楽しむ映画を楽しめるほどの情緒を持ち合わせてはいない。 高評価されている作品を貶したいのではなく、それがわからぬ自身の感受性についてちょっと考えていみたいと思います。 さて、本作はダンサーたちがパーティーをしていたら、飲み物にドラッグが混ざっていたようで、ハイになったり混乱をきたしたりで徐々にカオスになっていくスリラー。 で、ダンサーたちの体技とか、長回しのシークエンスとか、客観的な見せ場は多数あるので退屈はしません。 しかし、集中すべき物語はあまりないというか、日常会話から見えてる人となりくらいで、人物たちの抱える問題とか、乗り越えるべき葛藤とかは示されません。そのため修羅場を過ぎたあと何が残ったのかは想像に任されているように感じました。 肌感覚で、人物たちの闇と共感して、それの開放を味わえたら、よりより鑑賞体験になるのかな。 でも私にはそういった情緒を持ち寄ることは出来ず、全てを映画に提供してほしいと思っている帰来があるので、なにか物足りない印象を受ける。 たとえば、シングルマザーの子供と、主役女性の過去を重ね合わせてトラウマを乗り越えるとかね。 手垢まみれで、そのうち形を成して鬼退治でも行きそうなレベルですけども。 それくらいべたな話がないと、自分の感情を乗せていくことが出来なかったりもするんです。 冥土への一里を踏んでいくばかりで、ろくに人生経験がないとそんな人間が出来上がったりするもんですよ。 さあ、ディズニー製作の映画でも見ましょうかね。  https://amzn.to/3oZpb7z

グリットを鍛える「歴史上の偉大な人物の名前を書いて その人が具体的に何をしたのか どんなやり方でそれをやり通したのかを書いてみよう」

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 ・歴史上の偉大な人物の名前を書いて その人が具体的に何をしたのか どんなやり方でそれをやり通したのかを書いてみよう さて、正直面倒くさいが、向かい合っていかなくては。 ようは、偉大な人物の小さなステップを自分に応用できないかと探るわけだ。 で、誰にしようかな。 思い浮かべると、そういう人だったからで済みそうな気もする。 アインシュタインとか、スティーブン・スピルバーグとか、ADHD気味でも、その一つの特徴である。過集中が幸いして、大成したなんて話も多い。 大抵のビジネス書がパクっている、7つの引き寄せるシークレットでも書かれている。結局には、一言一行、日々の行動が積み重なり、あらゆることが、なされていく。晩成の代表みたいに言われる、カーネル・サンダースだって、それまでの才覚ゼロだったとしたら、バイトの提案してくれたレシピが大金を生むなんて気づきもしなかったろう。 元に、マクドナルド兄弟は、自分たちの作り上げたものにそれほどの勝ちがあるかなんて気づかなかったわけだし。 で、私の場合はどうだろうか。もちろん偉人と比較するほどのことは何一つなしていないが、路傍の石よりかは何かをなしている。しかしそれを全うに評価せず、糧ともせず、大きな成功を夢想するばかり。成長しない者の特徴を煮しめたような人生だ。 では今日からは、どうすべきか。 なにかを着実に積み重ねて行かなくてはならない。 それは、今書いている駄文の、継続日数ではなく、この中の一行であるとか、価値あるものをクリティカルに取捨選択し、実に結びつけて行かなくては。 でもねえ、わかっていても性格なんだよなあ、これ。

謎日課、たとえ力を鍛える「このましい」

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 ゴミ出しの時間を守れる 図書館の返却期限を守れる 店員さんにも敬語 いただきますと言わないまでも手を合わせる 子供の前では赤信号を渡らない オフのときのキアヌ・リーブスくらい 道徳の教科書にのるエピソードくらい 小動物に優しい 例えになってない感じが強い。赤信号なんて普段どうしてるんだって、あれな性格が透けて見える。コモンセンスとは実に難しい。本当に好ましい事柄には、いけすかないという印象を持っているやつだとにじみ出ているような

謎日課、たとえ力を鍛える「快い」

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鹿威しの音 段差にたいする注意書き かゆいところに手が届くアップデート 切り口の美しいサランラップ 分別のしやすいペットボトルのフィルム シールはがし 目覚まし時計がなる前の目覚め 時間ではなく、腹時計で食事を摂る たとえじゃなくて、普通に良かった探しみたいな感じ。まあそれを転用するればいいのだけども。 こういったものは、生活経済圏が見えてくるねえ。できれば、想像でもいいから、富裕層にもリートの届く話題がほしいところだ。 ほら、あれ、トリュフのかけ過ぎは粋じゃない、みたいな

『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』実例で学ぶ、ライターのかさ増し、底上げ入門書。

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 はじめに、雑魚の言うことです。 『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』を読んだ。 それなりに役立つこともある。それなりの本。 しかし一番の特徴は、その分厚さ、デカさ。 中身は新書一冊に収まるレベルなのに、世間話と自慢話、フィーリングでの方法論。いかにもライターライターしたかさ増しの目立つ本。 文章で説明したことがらを、無題に図に示したり、しっかりと小学生の読書感想文メソッドをオトナの仕事に昇華している。 おそらくだが、大きいものに価値を見出す心理的効果をねらったか、書店で目立つ作なのか。とにかく無駄に本に厚み(物理的に)持たせようとしている。 重ね重ね。内容は全くの無駄ということはない。けれども無駄な部分に底上げノウハウが詰まっていて、そこに気づくと不快感を覚える。 しかし、現代のライターの一番の仕事とはこれ。全く新味のない話を、自分だけのアイディアのごとく堂々と話す。その実践としては素晴らしい。現に売れているのでそこも参考になるところだろう。 文庫レベルに圧縮してくれたら普通に有用

謎日課、たとえ力を鍛える「びちゃびちゃ」

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 なんでこんなの出たんだろうか。でもやる プロムのときのキャリーみたいに 目覚めたばっかりのネオみたいに シャンプーまみれのオーランド・ジョーンズみたいに あれほど畑の様子を見に行っちゃだめと止めたおじいちゃんの最後の顔みたいに 上階の風呂場からの水漏れ、そうもう水を止める人がいなくなったのだ。 日本かぶれのアメリカ人の食べる寿司の醤油くらい 食事を作った母に敬意もなく、父の使う調味料くらい たとえの狭さによって、むしろ共感が生まれたりもするもので、でも プロムのときのキャリーと書くべきか、豚の血をを浴びたシシー・スペイセクというべきか、そこには正解はないよなー。

グリットを鍛える「起こりうる最高の人生を送るためには今後どのような障害が想定されているだろう」

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 千里の道も一歩から、されど、二歩目と踏める気もせず。 のびのび継続できるような人間が、啓発の書など目を通すはずもなく。ぐだぐだと実践できずに今に至るのです。 さて、目標を達成できる人間は、可能性を楽観視しつつも、自身の能力については等身大に受け止めなくてはならないそうな。 つまり、ダイエットに成功すると確信を持ちながらも、誘惑の多さや挫折を想定しておく、そんなバランス感覚がなくてはならないのです。 んで、現在の私が想定する障害。 想定の甘ささえも浮かばない程に、自己疑念に満ちている。 ものの本を読んでとりあえず行動に移したりしながら、結局は身にならず瓦解していく心持ちでしかない。当初は、着手していくうちに、自己の認知がニュートラルに戻って、ある程度は客観視しながら前進できるかもと思っていた。しかれど、マイナス思考、白黒思考、邪推というメンヘラ三種の神器は手放されることなく、その切っ先を磨いていくばかりである。 ここまでネガティブなのだから障害は想定しているともいえるか。 いや、前途をまで想定していないので全くグリット強化には帰依しないだろう。 この文章課題に対する向かい方も一考せねば、自己疑念を醸成していくばかりだなー。

グリットを鍛える「未来の理想の自分像とはどのようなものだろう」

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 このままでいいとは思っていない。とはいえ、どうなりたかもわからない。それが問題だ。 未来の理想の自分像とはどのようなものだろう そう問われて見ても、そこがしっかりと思い浮かぶのであれば、ここまで人生が停滞していないのではないだろうか。 漠然と、今よりも行動力があればと思って入る。そこを掘り下げようと思っても、いまの行動力のなさがあしを引っ張り、以降に答えへと導いてはくれない。 と、いつもの言い訳モードに浸っていては意味のない人生の意味のない時間を念押しするだけの意味のない文章になってしまう。 具体的に、私の思い浮かぶ行動力とは、いまの活動もそうだけど、特に有用とは思えなくても、続けていることだとか、ただただ積み重ねることに心地よさを覚える習慣だかそういったもの堅実にこなしていく持続力。 あとは、取り入れたいと思った新要素をためらいなく試行できる身軽さ。といったところか。ただこれも漠然としている。ある程度、自己に確信がある人ならその程度でも行動に移せるのだろうが、いかんせん私は自己への疑念が自我を勝っているところがあるために行動できない。行動が信じられないから行動できないトートロジーに迷い込んでしまっている。 いろいろと脳科学のセンセーなども行っているように、そもそも、「着手するためのやる気」など存在せず「持続させるやる気」だけがあるそうなので、もはや自分を信じて挑戦するなどということこそ脳科学的には正しくないわけだ。 で、今の所、第一歩の理想としては、自分を信じないまま、あたかも未来があるかのように一歩踏み出す、というのが思い浮かべるべき姿かもしれない。

『リトルガール』偏見のままってのは安易で楽な生き方だよね。

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 最近は弱い人のこころの方に注目するようになった気がする。 『リトルガール』 七歳のサシャが、性別違和を訴え、学校へ配慮を求めたり、医師に相談する様子を映したドキュメンタリー。 私は、幸いというべきか、性格はバグっているが、性別で悩んだことはない人間です。 LGBTQ作品などに触れて、多少の理解力は身につけているものの、結局は他人事の域を出ていないようにも思います。 そんな安全圏から本作を見てみました。 良質なドキュメンタリーゆえに、サシャや家族に向けられる偏見の目、それでも自分らしく生きようとするサシャ、支える周囲の人々に感動はします。 でもそれは、結局のところ劇的効果に感動しているのであって、共感とは呼べないもののようにも思います。 では、私がほんとうに共感してしまっているのはどこなのか。 それは偏見まみれ側です。 本作では顔さえ映らない人たち。いじめる同級生、服装を改めろという教師、説明会にも来ない保護者。 本来は戦うべき敵として描かれている人々。しかし私には気持ちがわかる。 端的に言って、楽がしたい。 性別に即した服を着るべきという考えは、非常に楽なものです。心と身体の問題だとか、そういったものをすべて脇に追いやって、即物的に、肉体的性別に遵守すればいいというのは、複雑な思考から逃げることができる。 教師たちも、他の生徒と同じように扱いたいというもの非常にわかる。学校は、子供にとって一生に一度の経験。しかし教師にとっては、何人もいる、過ぎ去っていく街路樹の一本に過ぎない。なにごともなく、いつもどおりに通り過ぎてくれればいい。なにか違和があっても避けて通りたい。 人生、楽に越したことはない。 心理学の用語で、内観法というものがあります。自分で自分の心の状態を観察するという心理学の形態。この内観法の問題は、自分で自分の心が分かる人は一部しかいなかったということ。内観法しかなかった時期の心理学は停滞していました。 結局の所、深い洞察だとか、新しい考えを受け入れるとかは、誰にでもできることではないのではないか。 そんなふうにも思うのです。 私にとってはいろいろ考えさせてくれる映画で、性別違和の治療の進歩を知ることができたりと内容の濃いものでした。 しかし、この問題を一番届けるべき人々は、この映画を見ることがあるのかというのが一番の疑問点ではあります。 https:/

謎日課、たとえ力を鍛える「麗しい」

 黛蓄膏渟の麗しさ 新緑を透かす日差しのよう 川に溶け込む雪解け 水面を泳ぐ紅葉の 雑踏を打ち消すような イマイチ麗しいの意味を捉えきれていなと自覚する Googleに曰く よく整って美しい。ほめたくなる(心があたたまる)ほど立派だ。  「―女性」 晴れやかだ。よい。  「―天気」 まあそれほど外れてはいないようだ。 で、ポジティブにしか捉えようのない言葉だと全く出てこない。出てきても、使い古された擦り切れたTシャツみたいになってるイメージしか出てこない。 凡庸だね。

謎日課、たとえ力を鍛える「励む」

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 1,やりがいの搾取に気づかぬ居酒屋店員のように 2,ジャンプ漫画の修行シーンのように 3.血を吐きながら続ける悲しいマラソンのように 4.働かない働きアリを横目に汗水たらすまっとうな方のありのように 5,次落ちたら実家を追い出される浪人生のように 6,もはや業者レベルの餌をまく鳩おばさんの餌やりのように 7,会社レベでしか改善仕様のない業績不振を売り場で立て直せるとか思ってるフロアリーダーのように 8,オリジナル宗教の修行だと言って、体中に松脂を塗っているあの人のように まっとうな表現が一つもない。あと投げやりになってファンタジーな要素が入り始めた。 普遍性はない。

謎日課、たとえ力を鍛える「がつがつする」

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 1.話題泥棒する芸人のように 2.血の足りないルパン三世みたいに 3.味わうことも忘れた飽食の時代の象徴のように 4.戦い終わりの悟空くらい 5.自己啓発読んだ直後の営業マンくらい 6.大量の豚の胃 7.食べ放題で元を取るとか言い出す人 なんだか頭が働かない。5分ではこの程度。一つ一つうーん、と頭を捻らないと出てこないので、会話の速度で使えるようなものではない。 読み返してみても、汎用は低め。投げやりなものも多い。 とっと自己フィードバックをしてみないと有用性もたかまっていかないね。たぶん。

謎日課、たとえ力を鍛える「短い」

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  1.俺はタバコを吸っても病気にならない家系だからと言っていたおじさんの残された時間くらい 2.メジャーデビューが決まって、上京したインディーズバンドの夢の儚さくらい 3.感動的な映画を見終わって、生まれ変わった気になったあとの志の持続時間くらい 4.免許合宿で出会った仲間とのお友達期間くらい 5.仮入部のときの優しい対応くらい 6.日暮里西日暮里間 なんか漠然としたイメージの方ばかりで物理的なあるあるが出てこないね。 なんか後ろ暗いワードがでるのはいいとしても、ベタな感じがぱっと出るほうが射程が広めになるとおもうんだけど、まったく資質がない。

謎日課、たとえ力を鍛える「得意げ」

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  とにかく瞬発力と持続力こそ鍛えなくては。 1.自分でセッティングしたウェブインタービューに答える社長くらい 2.一回り年下の子供とカードゲームをする青年くらい 3.昨日見たYoutube動画から豆知識を披露するときくらい 4.逆上がりができたあの日の少年のように 5,池上彰の発言をすべて鵜呑みにした政治知識くらい 6、ろくろを回すクリエイターくらい 7,ビックマウスを装っていないとメンタルが危うくなってしまうボクサーのように 8.トミーワイゾーくらい 時代を超えた普遍性とか、誰にでもわかる裾野の広さなんてものがないね。

謎日課、たとえ力を鍛える「考え事」

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 続けることに意味はあるけれども、なんのために続けているか定めなくては大概無意味。そうこれも。 1.胃にスイスチーズみたいな穴があくタイプの考え事。 2.打ち切りになった海外ドラマの続きを気にする程度の考え事 3.答えが出る頃には、90年代を乗り切ったブルース・ウィリスの頭になってる考え事 4.ジョークに出てくるジョージ・ブッシュジュニアよりはマシな考え事 5.地獄の門に乗っかってる人なみに深遠な考え事 6.葦よりは考えてる 7.下手な考えではあるが休むに似ているというよりかは半歩前に出ている考え 8.人生の展望についての思案のハズがいつのまにか日向坂の戦略についての考察に切り替わる程度の考え事 時間切れ。 次回からは、目標を持つことと、自己フィードバックについて考えなくては、どうにもプラスにはてんじない気もする。ある程度は頭の体操にはなっていると思うけども。

グリットを鍛える「自分が最高の状態にあった時あなたの強みはどのような形で発揮されていただろう」

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 さて、意志力を鍛えるために自分の資質と向き合うよう促されているわけですが、そもそも見つめ直す自己がないというのが問題なのかなと。 最高潮の自分の強み ねぇ 謙虚でもなく、後ろ向きな捉え方をしているのでもなく、本当に覚えがない。 幼少の自分より、常からに自分に甘く、しかもその甘々のままでなんとかなっていたという運の良さも相まって、人生のすべてが手抜きでなんとかなっていた。 で、自身のポテンシャルを発揮する機会などなかったわけだ。 これを前向きにとらえると、あまりに基礎能力が高くてそれを活かす必要さえないということなのか。 なんてこともなく至って普通の無能なわけで、どうにも自身を掘り下げても、なんの鉱脈も見つからず、砂が手からこぼれ落ちていくのを眺めるばかり。 現実的な前向きさを身につけるべく、本を読み、自分を見つめ直しておるのだが、まったくもって全身がなく、大した闇さえもない薄ぼんやりしたモヤを眺めるに過ぎない。 後ろ向きも磨けば哲学になるものだが、私はただ世俗をやっかむ程度の薄灰色。どうにも利用価値はないように思う。 そんなわかりきったことを確認しても無意味なので、ポジティブな解釈でもこじつけておこう。 私の最高潮はまだ未知数だ。