最近は弱い人のこころの方に注目するようになった気がする。


『リトルガール』

七歳のサシャが、性別違和を訴え、学校へ配慮を求めたり、医師に相談する様子を映したドキュメンタリー。


私は、幸いというべきか、性格はバグっているが、性別で悩んだことはない人間です。

LGBTQ作品などに触れて、多少の理解力は身につけているものの、結局は他人事の域を出ていないようにも思います。

そんな安全圏から本作を見てみました。

良質なドキュメンタリーゆえに、サシャや家族に向けられる偏見の目、それでも自分らしく生きようとするサシャ、支える周囲の人々に感動はします。

でもそれは、結局のところ劇的効果に感動しているのであって、共感とは呼べないもののようにも思います。

では、私がほんとうに共感してしまっているのはどこなのか。

それは偏見まみれ側です。

本作では顔さえ映らない人たち。いじめる同級生、服装を改めろという教師、説明会にも来ない保護者。

本来は戦うべき敵として描かれている人々。しかし私には気持ちがわかる。


端的に言って、楽がしたい。

性別に即した服を着るべきという考えは、非常に楽なものです。心と身体の問題だとか、そういったものをすべて脇に追いやって、即物的に、肉体的性別に遵守すればいいというのは、複雑な思考から逃げることができる。

教師たちも、他の生徒と同じように扱いたいというもの非常にわかる。学校は、子供にとって一生に一度の経験。しかし教師にとっては、何人もいる、過ぎ去っていく街路樹の一本に過ぎない。なにごともなく、いつもどおりに通り過ぎてくれればいい。なにか違和があっても避けて通りたい。

人生、楽に越したことはない。


心理学の用語で、内観法というものがあります。自分で自分の心の状態を観察するという心理学の形態。この内観法の問題は、自分で自分の心が分かる人は一部しかいなかったということ。内観法しかなかった時期の心理学は停滞していました。


結局の所、深い洞察だとか、新しい考えを受け入れるとかは、誰にでもできることではないのではないか。

そんなふうにも思うのです。


私にとってはいろいろ考えさせてくれる映画で、性別違和の治療の進歩を知ることができたりと内容の濃いものでした。

しかし、この問題を一番届けるべき人々は、この映画を見ることがあるのかというのが一番の疑問点ではあります。


https://filmarks.com/movies/89426