『魔法にかけられて2』全部ファンタジーになったらもう特徴もなくなっちゃう
前作のほうが好きです。なんだかとっ散らかってる印象。
『魔法にかけられて2』
Disenchanted
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配信サイトリンク |
IMDb | 6.0/10 |
Rotten Tomatoes |
42/100 |
映画.com | 3.0/5 |
Yahoo! 映画 | 3.0/5 |
Filmarks | 3.6/5 |
coco | /100 |
特に意識もなく、新作に上がっていたから見ました。
前作はそこそこ好きな作品です。ミュージカルアニメの住人が現実世界に迷い込んでしまう物語としてよく出来てきた。ちゃんと、エイミー・アダムス演じるジゼルはアニメ然としたふるまいが板についていた。それと好きだったのはサブヒロインの扱い。ジゼルが現実に慣れていく様子と反比例するように、イディナ・メンゼル演じるナンシーが本当の願望であるロマンティックな憧れに素直になるというサブストーリーも自然に絡んでいって大団円。古典ディズニープリンセスを皮肉りながら、そこへの愛は忘れてない作品に。
それと比べると続編はちょっと悪い意味でタイトル通りに腰砕け感がある。
ストーリーとしては、前作が終わって「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」にはならないのが現実だ、というもの。
正直もうこの導入部が納得できないというか。
赤ちゃんが生まれて、子育てに苦労するとか、夫の連れ子がティーンエイジャーになってギクシャクし始めるとか、そりゃーいろいろ大変だろうけど
じゃあ、郊外へ引っ越そうというところがよくわからない。夫の仕事もあるし、長女の学校もあるのに、なぜそんな結論に成るのか。
ジゼルがそう考える切っ掛けは看板を見かけたからだけど、それがなんか現実味がない。なんか、1970年代のサバービア宣伝みたいな夢物語みたいな郊外住宅の看板。これを真に受けるのは、ちょっと発想がお花場過ぎやしないか。ジゼル一人が信じ込むならまだしも。一家で納得して引っ越していくのはピンと来ない。
なんだか次の展開につなげるためだけに引っ越している感じがする。自治会メンバーがちょっと意地悪だとか、長女が学校に馴染めないだとか、おとぎ話とは違う現実問題を描くにしても、そりゃあ引っ越した直後はそうだろうくらいにしか見えない。
その上、ファンタジー世界の思い出に浸りながら、あそこではすべてがうまく行っていたとか言い出して、ことの原因はニューヨークから引っ越しなのに、そこには後悔していないみたいな論理のねじれが生じてている。
ここも、そうやって昔を懐かしんで、現実世界をファンタジーにしてほしい願い事をしてしまうというストーリー展開のためのお悩みな気がしてならない。
こうなると、ファンタジーと現実が入り乱れた、前作らしいおもしろがあるかとおもいきやそうじゃない。
ファンタジー要素が現実に現れるのでなくて、ファンタジーに塗り替わってしまう。住人たちも魔法の存在を違和感なく受け入れているし、自治会長も自分が女王になって魔法を使っていることになんの違和感ももっていない。これでは、現実とファンタジーの二重構造にいみがなくなるし、いきなりミュージカルになってもなんの違和感もない。ミュージカルの変な感じってのが前作のおもしろさだったはずだけど、続編だからそれは諦めるってことなのか。
なんだか話のテーマもよくわからなかった。
いまいち、ジゼルが願ってしまったことと、その代償が、対照をなしていない。
たとえば、ファンタジーの都合のよさを求めるがあまり、努力とか困難から学ぶことができなくなる、とかならまだしも、継母は意地悪というのが定番だからジゼルが意地悪になってしまうってこれはいったいなんの葛藤なんだろうか。
解決の仕方も、本当の娘ってキーワードは一見感動げではあるけど、結局、願いを手放して現実を受け入れるってのは、願ったジゼルにしか担えない役割だと思うのだけど、なんか問題すげかわっている気がするし。
個人的に気になったところというか、夫が通勤電車が苦痛みたいな結構共感を呼ぶディティールが一回だけ描写されるけど、べつに彼がそこでファンタジーを夢見る様子も無ければ、実際のファンタジー空間で現実の良さを再確認するでもなく、ただただナレーションで、電車通勤やめて家の近くではたらくって一言そえられるだけ。
おとぎ話のその先を描くような導入の語りとは裏腹に、商業主義に再招集された賑やかし映画程度になってしまった。まあ、賑やかしくらいには楽しめなくもないけれど。
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